♯536 どうする家康第27話ネタバレ&感想 ~安土城の決闘~

こんにちは。ひろくんです。

 今日から後半戦。アレを成し遂げましょう。

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 今日はどうする家康第27話のネタバレ&感想を書いていきたいと思います。ネタバレになりますので復習がてら読んでいただきたいです。ネタバレ嫌な方はごめんなさい。

 家康が信長から安土城に招かれることが決まった。

 「信長を殺す。天下をとる」と家康が言うと

 「どうやります?」と本多忠勝が聞くと

 「安土でさようなことはできないでしょう」と榊原康政が聞くと

 「安土ではやらん。信長は京にうつるはずじゃ。今は都は信長の家。都は穏やかになり敵への備えは手薄。すでに半蔵たちに調べさせておる。近ごろ信長の宿は本能寺という寺だそうじゃ。ぬかりなく進めておる。信長を本能寺で討つ」と家康は言いました。

 「信長は討てても配下の将たちがおるでしょう」と大久保忠世が聞くと

 「いやおらん。配下のものは遠くにおる。秀吉は毛利攻め、柴田は北国。すぐにはかけつけられん。唯一厄介なのは明智」と石川数正が答えると

 「やつを遠ざける策は考えてある。異存反論は許さぬ。従えぬものはこの場で斬る。わしはもう誰も指図を受けん。誰にもわしの大切なものは奪わせぬ」と家康は言いました。

 家康が安土城に行く準備を進めていると於愛の方が2人の息子を連れてくる。

 於愛の方との間に長丸と福松が産まれており長丸は3歳、福松は2歳になっていた。長丸は信康事件の起きる少し前に産まれ後に2代将軍になる秀忠である。

 信長にとって徳川は武田に対する備えの役割を果たしていた。その武田が滅亡し信長は家康を厄介と思われても仕方ない。家臣たちはこれは罠ではないかと言うものもいる。

 そうして家康は家臣たちと穴山梅雪を連れて安土城に向かった。

 安土城に到着した家康一行は安土城を見て驚愕する。安土城は誰もが腰を抜かすような要塞で信長の力を天下に示す城であった。

 家康が招かれた宴では見たこともない豪華絢爛なものが並んでいる。

 家康は緊張しながら膳を食べている。饗応役の光秀が次の膳を持ってくる。

 「淀の鯉でございます」と光秀が説明します。

 家康は鯉を口にしようと瞬間、手が止まり鼻が動く。

 それを見た酒井忠次と家臣たちは臭いをかぎ、信長と梅雪もつられて臭いをかぐ。

 「くさみなどございません。日本一の淀鯉ですから」と光秀は答えます。

 「そうでしょうな。贅沢なものを食べ慣れていませんゆえ」と家康は言いました。

 そう言って家康は鯉を口に入れようとすると信長が止めます。

 「におうならやめておけ。当たったら一大事じゃ」と信長が言い光秀をにらみつける。

 「におうはずがありませぬ。徳川殿は高貴な料理にないのでございましょう」と光秀が弁明するが信長は許さず光秀を殴り倒した。

 信長はどんな家臣であってもミスを許さない。光秀は饗応役を外され秀吉の毛利攻めのサポートするように言われる。

 宴が終わり光秀が家康に詫びに来る。

 「不手際により大変なご無礼を。お詫びのしようがございません。腹を召す所存」と光秀が言うと

 「この陽気でなっていたのでしょう。おきにめさるな」と家康が返すと

 「おきにめさるな?上様はしくじりを決して許さぬお方」と光秀は言いました。

 その晩、家康は信長と2人で話し合う。光秀から聞いていた。

 「本当に臭かったのか?」と信長が聞くと

 「明智殿のご処分はほどほどに」と家康が言うと

 「しくじりは許さぬ。使えないものは切り捨てる」と信長が返すと

 「うちにも使えんのがようおります」と家康が言うと

 「それはいかん。甘くみられると足元をすくわれる」と信長が言いました。

 信長は父の信秀から信じる者は己のみと教わっており何でも1人で行ってきたが家康は家臣たちに助けられて過ごしてきた。

 「上様、京へ入られるのでございましょう。一足先に行ってお待ちしております。今後のことはその時に。今宵はこの辺で」と家康は立ち上がりそう言うと

 「京で待ち伏せして俺を討とうとしているのか。やめとけ。お前には無理だ。白兎。腹の中を見せなくなったな。謝ってほしいか。妻と子供を殺して謝ってほしいか。くだらん」と信長が言うと

 「妻と子どもの死をくだらんと申すのか?」と家康は怒ってつかみかかると

 「妻子を死なせてすまなかったと俺が頭を下げれば気が済むのか。俺は謝らんぞ。人を殺めるということはその痛み苦しみをわが身に受けることじゃ。数え切れないほどの命を奪った報いはいずれ必ず受けるだろう。俺はかまわん。だがお前には無理じゃ。わしを支えるのが精一杯じゃ」と信長が言うと

 「私にはあなたの真似はできん。したいとも思わん。わしはわしのやり方で世を治める。たしかにわしは弱い。弱ければこそできることがあるとわしは信じる。行き詰っておるのはお主ではないのか。弱きな兎が狼を食らうんじゃ」と家康が返すと

 「ならやればいい。本当にわしの代わりをやる覚悟があるなら俺を討ってやってみろ」と信長は言いました。

 1582(天正10)年5月29日。信長はわずか100人ほどの兵を連れて安土を出発。一方、家康は先に京へ行き茶屋四郎次郎の屋敷に滞在しています。

 信長が本能寺に入ったのと入れ違いで京を離れて堺に向かったのである。

 感想としては信長が家康をおもてなし。光秀がしくじりをしてしまい本能寺の変のきっかけになったのかもしれない。信長が家康の自分の暗殺計画を許すところを見ると2人は仲がよかったのでしょう。

これからも当ブログをよろしくお願いします。

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